Unlimitedに上機嫌

「お金はかけずに学びたい」をコンセプトに、年間300冊を読む無職がPrimeReading対象本を紹介するブログです。

自分は、いつ「世界」を知ったのか?

子供は自分がいる「ここ」を世界の全てだと考える。4人兄弟の3番目という、家庭内で最も弱い立場で育った自分。両親が離婚して他の3人とは別々に暮らし一人っ子になるまで、自分は世界で最も弱い存在だと考えていた。家族構成もそうだが、行動範囲を広げる機会がほとんどなかったのも世界の認識が遅れた原因だと思う。

夏休みなどの終わりには、他県や海外に行った話で持ちきりになる。我が家は貧乏ではなかったと思うが、旅行という旅行に行った記憶があまりない。スポ少のバレーボールが忙しかったのと、両親がコミュニケーションをとる関係になかったというのが原因だと思う。だから、長期休み明けは気まずい思いをしたのを覚えている。昔から日本地図を眺めたり、世界の首都を覚えるのが好きだった。小5の時には、世界遺産にもハマった。しかし、それらは「世界」を感じるのが好きだったのではなく、単に知識が増えていくのが好きだったのだと思う。幼少期に繰り返し見た『エルマーの冒険』や『ハリーポッターシリーズ』も、自分がいる場所以外にも「世界」があるとは考えず、ただ感情が揺れ動く作り話にしか感じていなかった。

中学になっても、自分の「世界」は広がらない。静岡の大学に進学した兄の家に遊び行った帰りの途中、母親と弟で名古屋観光をした。短気で集団行動のできなかった自分は、名古屋城を見ている時に猛烈に帰りたい衝動に駆られた。一緒に来ていた2人には何も告げずに、家へと向かった。当時地図が見れるケータイを持っていなかったから、訳も分からず歩き続けたというのが正しい。結局、広大な敷地を誇る名古屋城さえ出られずに、1時間経ったぐらいで二人に見つかった。15歳にもなって情けないが、素直に謝ることもできず帰りの電車でもふくれ続けた。

隣町の高校に進学してからも、「世界」は依然として学校と家の間に留まる。多少変わったのは、電車に乗るようになったこと。それまでは遠出をするときにしか乗らなかった電車で通学するようになり、窓から見える景色を眺めるたびに「あそこにはどんな人が住んでいるんだろう」とかを考えるようになった。地味だが、それが「世界」を認識し始めた瞬間なのかもしれない。つまり、自分が知る場所以外にも「世界」は存在していて誰かが生活を送っている。早い人では小学生の時に気づきそうな当たり前のことを、自分は16歳になって初めて気づいた。

ハッキリと「世界」を認識したのは、県外の大学に進学してからだ。母親の影響もあって、自分は京都の大学に進んだ。1年目は大学の寮に入った。人生史上最も「きつかった」一年だったが、価値観が大きく転換した重要な期間でもあった。寮には全国から来た学生が集まっていて、ルームメイトは長野、同じ班には北は富山から南は沖縄まで、全国各地から出てきた同級生と共同生活をした。訛りや文化、ノリなど、これまで感じたことのないギャップを毎日体感した。そこで感じたカルチャーショックは、日本の広さと深さに繋がった。また、学生寮の隣には外国人留学生の寮が併設されていた。同じ授業をとっていたのをきっかけに、そこに住むフィンランド人の女性と仲良くなった。彼女は日本語が堪能であったが、相手の文化に寄り添いたいという意思から英語を話せるようになりたいと思った。国際系の学科だったこともあり、英語の授業を受ける姿勢が変わった。その頃から読書にも目覚めたこともあり、英語で本を読みまくった。そんな生活を送っていたから、英語を勉強する目的は、当初の「話す」から「読む」に変わっていった。もっとレベルの高いところで勉強したいという気持ちの変化と往年の学歴コンプレックスの結果、2年間浪人生活を送ることになる。

英語や読書にハマっていくうちに、気づけば「世界」は広がっていた。世界を認識し始めた19歳のころは、海外に行くことが世界を広げることだと考えていた。周りも留学する人が多かったし、大学側もそういうプロジェクトを推してきた。自分もそうした流れに乗っかってしまおうと考えていた時期もあったが、本の中に広がる「世界」の方に魅力を感じ、留学意欲は年々減退していった。しかし、浪人生活を含む6年間の大学生の集大成として海外旅行を計画していた。目的地は台湾だが、パスポートの取得や飛行機の手配を進めるうちに、ようやく「世界」に飛び立つことができる高揚感を覚えた。結果、初めての海外渡航はコロナによって実現できなかった。あれから3年経つが、未だに「世界」を経験していない。

最近では、「世界=海外」とは限らないと考えるようになった。「海外コンプレックス」を正当化するための詭弁であることは自覚しているが、身近なところでも「世界」が広がったと経験することが出来ることに気づいた。地図を使わずに気の向くままに探索する「放浪」は、自分の数少ない趣味の一つだ。知らない道や見知らぬ土地で生活する人を見た時、自分の「世界」が広がったと感じる。また、移動手段によって同じ場所でも「世界」は違って見える不思議さにも魅力を感じる。

世界を広げることは、海外旅行に行くことだけではない。本や映画、誰かの話を聞くことでも自分の「世界」は更新される。豊かな生きるのヒントは、飽きないことにあると思う。「世界」が変わらないことで飽きを覚え、不幸に感じる。「世界」を変えるには、行動しかない。行動は、必ずしも物理的な移動を必要としない。寝転びながら読んだ本や漫画が、自分の「世界」を変えることは往々にしてある。