Unlimitedに上機嫌

「お金はかけずに学びたい」をコンセプトに、年間300冊を読む無職がPrimeReading対象本を紹介するブログです。

差別や障害って、悪いもの?

先日訪れたマクドナルドで、手話で一緒にいた相手とイチャイチャしていた女装した男性を見た。相手も男性で、その情報量の多さに状況を受け入れるのに時間がかかった。振り返ってみて、あの時自分は何を受け入れれがたいと感じていたのか。明らかに男性である人物が化粧してスカートをはいていたことか。男性同士がイチャイチャしていたことか。それとも、耳が聞こえない男性がいたことか。どれについてか分からないが、あの時自分は差別をしていたんだと思う。自分が思う「普通」とは違う要素を持った存在だと認識したのだと思う。

Podcastの人気コンテンツ『歴史を面白く学ぶコテンラジオ』は、障害をテーマに2023年をスタートさせた。マクドナルドの一件がなければ、暗くて嫌な内容が想像されるテーマを聞こうとはしなかっただろう。自分は、障害を身近なものだとは考えていない。言い換えると、自分は障碍者ではないと自覚している。しかし、日常的に障碍者か否かを考えていて生きているらしいことは、マクドルドで見かけた男性に気づかせてもらった。彼らに何をしたわけでもないし、多分あの場にいた人の中にも自分と同じように考えていた人はいたと思う。しかし、最初に書いた「自分は、障害を身近なものだとは考えていない」は真実ではないことは確かだ。なぜなら、彼らのように「普通」と違う人は世の中にたくさんいて、彼らを見るたびに「普通ではない」と評価を下しているのだから。アニメキャラが言っていたセリフを思い出す。「差別することが悪いのではない。差別することに気づかないことが悪いのだ」。せめて、自分は差別していると自覚できている人間でいたい。

コテンラジオでの内容を、覚えている限り書いていく。障害は、社会によって変化する。たとえば、目の悪い人。全盲などの特殊な場合を除いて、今の日本では目が悪いことは障害とはされていない。見渡せば、視力0.1以下の人だらけだ。なぜ、彼らは障碍者ではないのか。メガネやコンタクトがあるからだ。もし、この世から視力をカバーする技術がなくなったらどうなるか。現在の社会で障碍者とされている、全盲者のような人たちであふれかえる。自分は1.0以上の視力があるので視力の悪い人たちの気持ちが分からないが、障碍者手当だけで社会保障費は爆上がりするだろう。つまり、目の悪さは技術進歩によって、ある時から障害ではなくなったということだ。技術は発達しても、いまだに障碍者だと認知されている人たちもいる。車いす生活者だ。彼らは、車いすという技術進歩の恩恵を受けていても、障碍者と見なされている。メガネによって視力を補っている目の悪い人と車いすによって移動を補っている足の悪い人。一見、両者に違いはないように思える。しかし、車いすでカバーできる条件は限られている。そもそも、ある程度のスペースがないと車いすは通れないし、メガネのように簡単につけ外しをしてしまっておくことができない。バリアフリーという概念が出て何年もたつが、足の悪い人が目の悪い人と同じ条件下で生活できるのは、肉体というハードに縛られている以上実現できない。

障害を考えることは、社会を考えることと同義だ。社会を考えるうえで、「多数派の幸福が優先される」という原理を抑えておく必要がある。現代日本という社会で、幸福とされているものはなんだろうか。多分、多くの人は金と答えるだろう。金がなければ食べていけないし、金を手に入れるために働く。つまり、社会が求めているものである金を生み出せるか否かが、社会に生きる人への評価となる。極端に言えば、金を生み出せる人を健常者、生み出せない人を障碍者という評価が下される。障害保険というものがあるが、あれは「お金を生み出せなくなった時にもらえるお金」と言い換えることができる。かなり酷だと思うが、多数派の幸せのためには少数派に名前をつけて区別しなければいけない。社会は、常にコストを抑えて管理しようとする。最もコストがかからないのは、多数派に多数派だと安心させること。社会の過半数に「あなたたちは普通の人たちですよ」と言ってあげること。障碍者という概念は、人間が社会という枠組みを意識する以上なくなることはない。呼び名が変わることはあっても、多数派に対する少数派という、低コストな管理法は残り続ける。

ローマ時代には、四肢に欠損がある人たちはスケープゴートとして利用されていた。良くないことが起こったりした時には、障害者に罵詈雑言をぶつけたり最悪の場合殺したりして、憂さ晴らしの対象とした。人は人智の及ばない何かが起こった時、何とかしてそれらに対処したという慰めを求める。成熟した大人でも感情的になった時、モノや人に当たったりして精神的な安定を図ろうとする。普通であれば、同じ人間をその対象に選ばないが、ローマ時代には人権という概念がない。四肢の欠けた人は、人ではない。だから、スケープゴートとして利用することができたし、その事実を聞いてゾッとできるのは自分たちが人権を尊重する社会に生きているから。

障害などの差別が生まれたのは、人類が富を認識してしまったことによる。今日食べるものは今日とるという狩猟時代にあった評価は、生きているか生きていないか。生きている者は仲間で、死んでしまった者はそういう運命にあったという考え。毎日が生きるか死ぬかの状況にあるときに生まれるのは、団結と独占。食べていくために必要なコストと自分が得られるベネフィットを計算して、みんなと協力した方がコスパが良い場合は団結するし、そうでないなら独占しようとする。

狩猟時代は、団結した方がコスパ良いというコンセンサスがあったが、農耕時代になって貯蓄することができるようになった。今取れたものを将来に残して置けるようになると、独占、または優遇されたいと考える者が出てくる。他の人を殺すことは長期的に自分の不利に働くので、集団の維持を最重視しつつも、管理者と被管理者という構図が少しずつ出来てくるようになる。管理する側は、全体の利益が最大化するようにする。多数派から文句の出ないようにするのが最もコスパが良いので、多数派と少数派の分け方を模索し始める。そこで、考案されたのが生産量による評価。たくさん生産できた者により多く配分し、できない者には配分しないというもの。以降、生産と富の配分をベースにした評価制度で、これまで社会が形成されてきた。弥生時代から稲作するようになったと習った。弥生時代は約2000年前とすると、今の社会の基本的な仕組みは約2000年前に決まったということになる。

「頑張った者が報われる社会」。ドラマや漫画でよく耳にするフレーズは、差別を許容する社会の実現を願っているとも取れなくもない。なぜなら、「頑張った/頑張っていない」は社会的に言うと、「生産した/していない」となるからだ。「生産しようとしているけど出来ない人たち」も生かそうと思うと、大義的な区別が必要になる。差別や障害などの概念は、残酷に見えるようだが救い上げようとする配慮を含んでいたりするのかなと思わないでもない。