Unlimitedに上機嫌

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老いには「アホ」で対抗すべし!

こちらの記事でも触れたが、最近老いについて考えることが増えた。正確には、「老いらしきもの」を意識し始めている自分がいることに気づくようによった。そんな自分の問いについて、毎週楽しみにしている『世界を面白く学ぶコテンラジオ』で話していた。

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テーマもさることながら、今回のゲストは同郷の若新さん。Abemプライムを見漁っていた時に、何となく賢い人だなと思っていた人。

若新さんは、老いから徹底的に抗おうとしているそうだ。X JAPANのファンで、年齢を聞かれて「Xです」と答えるメンバーに憧れを持った過去があるらしく、テレビに出始めてしばらく経った頃か年齢非公開にしているらしい。

さまざまなビジネスや公的福祉を手掛ける彼は、この世から年齢を消滅(ラジオでは「滅消」と呼んでいた)させる野望を持つ。本気で実現できるとは考えていないと語っていたが、老いというものは年齢という概念とともに生まれたものだと説明。社会が管理しやすいように作られたにすぎず、彼は「老いは事象ではなく認識だ」という考えを支持している。この考えを実践できている状態を理想の自分だとし、何歳になってもスタンスを変えない高田純次さんを実際に見て、自分もこういう人間になりたいと語る。

余談だが、彼は年齢のほかに社会から消したいものとして「個性」を挙げる。現代の社会では、個性を大切にしようという風潮が高まる一方で、個性がないといけないという空気がある。自分の個性はこれだと言える人にとっては生きやすい時代になっているが、これと言った個性がない人はつまらないダメな人間だと思い込むようになってしまっている。「個性」で語るとアリナシ論になってしまうから、「個人差」という概念に置き換えようと提唱する。身長も趣味も昨日食べたものも、全てに個人差は存在する。個人差であれば、あるかないかを気にする必要もなく、正解などない単なる固有の特徴として語ることができる。

年齢の話に戻ると、「年相応」という言葉もこれからの時代生きづらくなる概念だと主張する。平均寿命が60歳の時代であれば、「60歳相応の自分」は誰にでもできそうな気がする。しかし、100歳まで生きられるようになった現代では、「90歳相応の自分」を実現するのはかなり難しい。なぜなら、体力などの身体面以外は、年齢と共に熟成されていくものだと考えられるからだ。知性と豊かな経験を持つ成熟した人を「90歳相応の人」だと規定された場合、どれくらいの人がそのレベルに見合う人間となれるか。長寿化が進む中で、年齢を重ねることをポジティブに捉えようとする動きはどんどん加速する。そうしないと、価値も生み出さないただ社会のお荷物になっている人たちだと烙印を押しているように聞こえてしまうからだ。しかし、そうした機運は寿命が延びるにつれて「年相応」のレベルを引き上げることに繋がる。年齢をその人を測る絶対的な尺度にすると、年相応か否かで人を判断し、「最近の若いもんは」と言ってきた人が「最近のおじさんたちは」と言われる局面も増えてきてしまう。

自分なりに若新さんやパーソナリティの方たちの「老い論」を聞いて思ったのは、アホでい続けることが幸せのカギであるということ。ラジオでも言及があった、芸人さんが分かりやすい例。今年亡くなられた上島竜兵さんや出川哲朗さんなどは実年齢60歳近くでも、熱々のプールやおでんを涙を出しながら食べる。客観的に見たら、アホ。本来なら「いい年した大人が何をやっているんだ」となるが、お茶の間で見る人たちは手を叩いて笑う。高田純次さんもそう。何年間も変わらずボケまくる。「どこがキムタクやねん」と思いながらも、見るたびに笑ってしまう。彼らは選ばれしプロフェッショナルだが、人を惹き付ける魅力の正体は「いかにアホでいられるか」だと思う。そこには年齢という正確な情報など要らない。シワや白髪、だらしない体を見れば、人は瞬時にいくつぐらいかを考える。一度設定された自動計算機能を無くすことはできないし、電車で席を譲ったりするなど必要な局面はある。大切なのは正確に規定しないこと。キッチリ把握しようとするから、平均や理想からのズレが気になってしまう。最も気にすべきなのは、理想の自分との距離。これは偏見だが、若々しい人「アホ」な人は、「心はずっと20歳」などを口癖にしている傾向がある。だから、幼少期にハマったものや夢に執着するし、なりふり構わずそれを実現するために行動する。その姿勢こそが、外見や雰囲気にも表れて、見る人によっては「アホ」や「天才」、「超人」などと呼ばれる。「バカと天才は紙一重」という言葉は、老いの本質を言い表しているのかもしれない。