Unlimitedに上機嫌

「お金はかけずに学びたい」をコンセプトに、年間300冊を読む無職がPrimeReading対象本を紹介するブログです。

信号を守ることは、ゴミを拾うことと同じなのかもしれない。

 「青は注意して渡る。黄色は止まる。赤も止まる」。記憶が正しければ、学校ではこのように習った。これまでこの教えに従ってきた。とは言わない。誰も来ない赤信号は何度も渡ったし、黄色は基本急いで渡ろうとする。そのように告白したうえで、言いたいことがある。学校の教えと現実との間には、信じられないほどのギャップがある。信号の例で言えば、「青は問答無用で渡る。黄色はほぼ青と同じように渡る。赤も問題なそうであれば渡る。」これが、社会に生きる大多数の標語ではないだろうか。自分も、学校の教えよりもリアルなルールに従っている。だが、赤信号で待っている時に、向こうから渡ってくる人を見るとイラっとする。自分はちゃんとルールを守っているのに、と。都合の良い怒りであることは重々承知している。だが、そのように客観視できない時もある。そうした感情的になることも、年を取るにつれて減ってきたと思う。時間をかけてリアルを受け入れてきたのだろう。

 最近では、「信号は親切のようなものである」という考えに至った。ゴミ箱のそばに紙くずが落ちている。周りにはチラホラ人がいる。大谷翔平は、ゴミを落ちているのを見るとラッキーだと思うらしい。ゴミは幸運であり、ゴミを拾うことは幸運を拾うことであるという考えからだそうだ。このエピソードを聞いてから、自分もゴミを見かけると拾うようにしている。大谷翔平のような人物に近づいている感じは全くないが、シンプルに気持ちが良い。今までにその行動を褒められたことが数回ある。毎度誰かに見られていると思っていないので、褒められて嬉しいという気持ちと同じくらいドキッとする。自分は想像以上に誰かに見られているんだなと。信号を守ることは、ゴミを拾うのと同じではないだろうか。ゴミを拾うたびに誰かに褒められることはない。ごくごく稀に褒められることを除いて。それと同じく、信号を守っても誰かに褒められることはない。「みんなは無視しているのに、偉いね~」と言われたことは、かつて一度もない。反対に落ちているゴミを無視しても咎められたことがない。自分が拾うようになっても、指摘される人を見たことはない。信号だってそうだ。通勤通学ラッシュ時、交差点に立つ警察官は信号無視する多くの人を止めたりしない。指摘する人とされる人の比率が、あまりに不均衡だからだ。町中に設置されたカメラにより無視した人に減点される超管理社会の実現はもう少し先だろう。

 この世に、絶対的なルールなど存在しない。ルールの多くは、その場その時で変化し続ける。エスカレーターでは右に立つとされている大阪でも、先頭の人が右に立てば後続も右に立つ。そんな中、一人だけ左に立てばその人がマナー違反の烙印を押される。信号だってそう。赤は止まるとされていても、一人だけ止まって人の流れを止めれば迷惑がられるのはルールに固執したやつ。ルールとは、親切である。やっても褒められない。やらなくても咎められない。社会を生きる上では、「良い/悪い」の二元論ではなく、「あれば善い」の一択しかないと思うぐらいが良いのかもしれない。